日は過ぎ去り、ほんの少しだけ王城が恋しくなり始めた頃、ロナがあることを言い出した。
「――と言う訳でね、ちょっと寄り道してもらうわ」
それは突然だったが問題ない。
「はい。……俺はロナ様の護衛ですから」
ティアに与えられた任務は、ロナ・デモート・アリアスの護衛だ。
だからティアは、ロナが行く場所に護衛として付いて行くだけであり、嫌だとか言う立場ではない。
「うーん……やっぱり直んないわねぇ」
しかし、ロナはティアの言葉も聞かずに唸っていた。
「ティア、様付けは止めてって言ってるでしょう!」
びしっと人差し指を鼻先に突きつけられて、ティアは少したじろぐ。
ティアはロナのことを姫とは呼ばなくなったものの依然、様を付けて呼ぶのだ。
「それと敬語も要らない!」
対等な友人でありたいというのは、ロナの我儘なのだろうか。
「ロナ様」
だ・か・ら、と注意しようとしたロナの腕を掴み、ティアは走ってその場を離れた。
その瞬間、幾本もの矢が先程までロナの居た場所を貫き、射られた方角とは逆の太木の幹に、深々と突き刺さっていた。
ロナは息を呑む。
「尾(つ)けられているようです。……もう少し開けた場所まで走って下さい」
諭すような声で促されて頷く。強く掴まれた腕の力が少しだけ緩められた。
「う、うん」
ロナはティアに引かれるままに走った。
疲れたけれど、止まったら殺されるかもしれない。そんな恐怖がロナを走らせていた。
だが殆ど代わり映えしない森の中を走り続けているから、今どこにいるのか分からない。足が鉛のように重い。
額に浮いた汗が首筋を伝う。
「もう……大丈夫です」
辺りの気配を伺うように潜めた声だ。
引かれていた腕が解放され、思わず前のめりに倒れかけて、踏み止まる。
「そう……よかっ………………!!」
深く乱れた息遣いのまま、ロナが顔を上げる。その瞳は一点を見ていた。
「お怪我はございませんか?」
だが、この王女にはそんな声が聞こえているはずもない。
「……ここ」
ティアとは違い、ロナの呼吸は乱れていて聞取り辛い。
「ここよ……ここっ」
ロナは顔を輝かせて、ティアの腕を引いた。
何事かと思い、ロナの視線を辿る。その視線の先にあるのは大きなお屋敷の一角だ。
壁にはその家紋らしき紋様が彫り込まれている。
「ここに……寄るの!」
まだ落ち着かないのか、息切れをしたままロナは言う。
「ゼリェス家、ですね」
ゼリェスの家紋は柊(ひいらぎ)の葉が二枚、対称に組み合わせられている。
それが壁に掘り込まれ、ここが誰の屋敷かを見せしめていた。
「ここの仮面舞踏会に出るのよ」
ようやく常の心拍数に戻ってきたらしい姫は、微かな皮肉を宿した笑みで微笑んだ。
人払いをした室内で、二人きりになるのは、一体いつぶりだろう。そんなことを頭の片隅で考えながら話していた。
余計な話などは一切しない。必要なことを伝えるばかりではあったのだが、それでも久しい。
「護衛はつけよう」
適任は誰だろうと、そう短くはない時間、考え込む。そしてふと、思い出した。
たった一度見たきりの、ある少年のことを。
「……あれが、よいだろう」
いつの日のことだったか。御前試合ではなかった。政務の途中、偶々(たまたま)通りかかった中庭で見た気がする。
普段なら気にも留めない。だが、その日は違っていた。まだ少年だろう男が、軍服を着た数人に囲まれていたのだ。
「あれは、お前と同じ年頃で」
思い出すのは、彼の黒い双眸(そうぼう)だ。真っ直ぐで強く、だけれど、どこか諦めたような得体の知れない光を宿していた。
「……身分も勲章も、何も持たないが」
だが、彼は自分よりも遥かに体格のよい兵達を、一度に打ち負かしたのだった。
「これだけは言えよう?」
あの鮮やかな剣捌きに、小柄故の敏捷(びんしょう)さ。
武術にはあまり詳しくはなかったが、それでもすごいと思った。
だから断言する。奴の腕は確かだ、と。
今はもう青年の姿であろうが、王はあの日一度見たきりの少年の姿を思い浮かべてそう言った。
「……ありがとうございます」
儀式的に礼をして、ロナは部屋を辞す。王は溜め息をついて、心の中でこう付け足す。
後から聞いた話だったが、彼は軍の中でも煙たがられ、疎まれているという。
だから、……そんな者にこそ、この任務は打ってつけだった。互いに疎まれる存在であればあるほどに――……