芽吹き
暗く長い回廊の奥。静まった部屋にその女はいた。
お待ちしておりましたわ」
足音が聞こえたのか、女は扉を開け、溌剌とした、よく通る声でそう言った。
長い睫と腰まで伸ばした緩やかな癖のついた髪は、透けるような金色であった。
このやや小ぶりな建物は、木々に隠されるようにして、現実世界から隔離されていた。
「肌にハリがありませんわね。また、ご無理をなさっているのでしょう?」
女は、男の手を引き、部屋の奥へと誘う。
「今、お茶を入れますわ。どうぞお寛ぎになって下さいませ」
この陰欝とした場所で、女は眩しかった。
茶器が動く度に陶器が小さな音を立てる。
「ダメですわ」
女を後ろから抱き寄せようとしたが、するりと腕の中から抜け出てしまう。
「まずは、わたくしの入れた熱々のお茶を頂いて下さらないと」
少しだけ怒ったような口ぶりで、女は笑った。
「どうぞ、召し上がれ」
白い磁器には青い大ぶりの花と、赤い小花が描かれている。私は渋々それを手にし、湯気の立っているお茶を飲んだ。
それは、思わず溜息が漏れてしまうくらいに美味であった。
「わたくし、あなたの為にガレットも焼きましたのよ」
女は得意げにそう言って、近くにあったバスケットから、焼き菓子を取り出す。
「行商に来ていた商人が珍しい果物を持っていたので、少し分けて頂いて、種を取って天日で干しましたのよ。それを細かく気って、生地に混ぜ込んでみましたの」
少し甘酸っぱいその果実は、本来のバターの風味を損なわないように、控えめに、混ぜられていた。
「お口に合いますかしら?」
私は2、3切れを口に運び、お茶を飲み干した。
「相変わらず、気が早いのですわね」
私が何をするかなんて、全てお見通しなのであろう。
女はくすくすと笑って私の手を取った。そうして、私を真っ直ぐに見つめた。
「あなたに聞いて頂きたいお話がありますの」
高価な宝石のような紅い瞳が、少し真剣味を帯びる。
「わたくしは、あなたの決定に従いますわ。例え、あなたがどのようなご決断をされても……従う所存にございます」
何を……考えているのか。
そう思ったときには、既にいつも通りの穏やかな瞳に戻っており、それ以上、問いただしても何も言わなかった。
私は、いつものように穏やかな時間を彼女と過ごした。恐ろしく多忙な毎日の中で、時たま女のもとを訪れることが唯一の息抜きであり、私が常に纏っているこの重たく着飾った衣装を、全て取り払ってしまえる時間であった。
「わたくし、……子供が出来ましたの」
そっと耳元でささやくように言われたそれは、突然のことで、初め理解が出来なかった。
「ですから、あなたの子供が」
きっと酷い表情(かお)をしていたに違いない。
「最初に申し上げました通り、あなたの障害になるのであれば、わたくしは、この腹の子は」
違う。
紅い瞳が険呑な光りを帯びる。
「出入りの商人に申し付けて、腹の子を殺す薬を用意しましたわ。ですから」
違う。私は……。
彼女の言葉を聞きたくなかった。穏やかな性分に見えるが、実のところ、彼女はかなり強情なところがある。彼女は一度決めたことは絶対に覆さないだろうことは安易に想像がつく。
私は彼女を押し倒し、その唇を自分のそれで塞いだ。
「ン……」
私は、夢中で彼女を求めた。初めは抵抗していた彼女だったが、次第に応えてくれた。
少しだけ、酸欠で頭が茫とする。
「勝手に話を進めるでない」
私は、彼女から身体を離してそう言った。
新鮮な空気が肺を満たす。
「……申し訳ございません」
紅い瞳が不安に揺れる。
私は、今度は、そっと彼女を抱きしめた。
この愛しい彼女と、自分の子……?
「私は、その」
自分の感情を上手く表す言葉が見つからない。
「……嬉しい、と思う」
少し他人事みたいな響きになってしまった。なんと言えば伝わるのだろうか?
だが彼女はくすくすと笑って、頬を染める。
「わたくしもですわ、陛下」
ひとしきり二人で笑ってから、こっそりと訊ねてみる。
「触っても……?」
女は笑いすぎて零れた涙を指で拭う。
「勿論ですわ、あなたの御子ですもの」
そっと手を伸ばす。
「でも、きっとまだ、分からないと思いますわ」
弾かれたように女の顔を見る。
「そ、そうなのか?」
息子も娘も既にいたが、懐妊の知らせは、臣下が持ってきたし、その後は、自分の預かり知れぬところで、生まれ、乳母達によって育てられている。勿論頻繁に顔は見ているのだが、髪色が違うせいか、あまり自分には似ていないように思う。
「生まれるのはまだまだ先ですもの」
女はくすくす笑う。
「これから、どんどんお腹が大きくなってきますわ」
「そういうものなんだな……」
女というものはよく分からない。
「そういうものですわ」
そう言って微笑む彼女はとても美しかった。
あとがき
- 2012年03月20日
- 陛下と陛下が愛した女のお話。