3章 仮面舞踏会 002

「仮面をつけていたら口元しか見えないわ。……誰も異相に怯えることはないの」
 そう言ってロナは目元を覆う仮面を顔にあてるフリをした。
「だからお父様は私に頼んだの。特に……最近のゼリェス家については色々疑惑があってね。接触は避けるべきなの。でも体面上、王家は参加しなければならないから」
 ロナは自分にあてがわれた部屋のベットに腰を下ろしている。部屋の隅にはその護衛がおり、静かに話を聞いていた。
 この屋敷の門を潜(くぐ)る時も、顔を隠したまま、招待状を見せ、予め決めてあったのか、偽名を名乗り、それだけで中に案内された。それならば確かに、異端の娘が参加するのだとは分からないだろう。
「そうだわティア」
 先程までの表情とは打って変わって、ロナは明るく問う。
「あなた、ダンスの経験はあるかしら?」
 それを言う時のロナは、悪戯を思いついたときの子供のようだ。
「……一応は」
 少しだけ躊躇ってティアは正直に答えた。
 但し、程度については触れなかったが。
「まぁそうなの?」
 ロナは瞳を輝かせ、期待に満ちた眼差しを向ける。
「舞踏会中も護衛はしてくれるのかしら?」
「……任務なので、当然です」
 何か嫌な予感がしてきたが、敢えて口には出さない。
「じゃあティアも準備をしないとね?」
 ロナはそう言って、とても嬉しそうに笑った。

 ティア・セオラスに与えられたのは、ロナの部屋の隣にある従者用の小部屋である。
 ティアは主の命令に従い、舞踏会に参加しなければならず、その為にアリアス軍の正装に着替えなければならなかった。
 銀の縁取りのついた、少し厚めの長衣をベルトで留め、裾が邪魔にならないように固定する。そして上着と同じ濃紺のズボンを履き、裾をブーツの中に入れる。靴が脱げてしまわぬように麻紐で締め上げ、完成だ。
 更に余った時間で剣を柔らかい布で拭いて、入念に磨き上げる。
 ところで、女というものの準備は男のそれよりも、大抵遅いものである。そしてそのことを知らない男共が多い中、例外にも、ティアはしっかりとそれを心得ていた。
 だから自分の支度が済んだ後も、こうして自室に止(とど)まっているのだ。
「……ァ……さま」
 そういえば、こんな風に女が準備するのを待つのは久しぶりだった。
 いつもはそれ程ではなくとも、この時間の後に女は人一倍輝く。

「もうよろしいですか?」
 この世に生を受けてから、殆ど変わっていない声で少年は問う。
 もう何度目の問いかけだろう。
 問いかけられたのは少女で、こちらはこの少年とは扉を挟んで部屋の中にいる。
「もういいわよっ」
 不貞腐(ふてくさ)れたような声は、不機嫌に部屋の外へと投げつけられた。
 少年が少女へ問いかけた回数は、もう両の手だけでは数えられなくなっていた。
「では、失礼します」
 少年は恐る恐る室内に入った。
 何か、彼女を怒らせるようなことをしただろうか? 彼には、少女が怒っている理由がさっぱり分からなかった。
「……どう、しましたか?」
「ティアはいつも早すぎるわ!」
 少年が部屋に入るなり、腰に片手を当てた少女がそう言った。
 少年は少女の言わんとすることがわからない。
「何が……ですか?」
「ティアがあんまりにも急かすからまだ準備ができていないわ」
 少女が乱暴に、胸元で歪んだリボンを指し示す。
 少女の着替えの手伝いをしていた侍女達は揃って壁に寄り添い、密かに苦笑した。
「女の子はね、準備に時間がかかるものなの! 分かった?」
 少女は語気を強めてそう断言する。
 よく分からなかったが、はい、と言ってティアは少女の胸元で歪んだリボンをきちんと結び直してやる。
 そうすると少女は少しだけ頬を染める。どうやら少女は機嫌を良くしたらしく、口元を緩めた。
 少女の向かいにある鏡には、仲の良さそうな少女と少年の後ろ姿とが映っていた。

「……そろそろ、か……」
 今はもう随分と低くなってしまった声が、そう呟く。

「ロナ様、ご支度はお済みですか?」
 そろそろ頃合いかと思って、ティアは速やかに隣室の姫を迎えに上がる。
「あらティア。丁度今、準備が整ったところよ」
 そんな声と共に扉が開く。
 思わず、ティアは息を呑んで立ち尽くしてしまう。
 そこだけ時間(とき)が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
 扉を開けたのは、美しく着飾った女性で、彼女は仮面舞踏会に出席するべく、目元には顔を隠す大振りの仮面を付けていた。
 その、黒っぽく燻した仮面に、緩く癖のついた金糸がかかる。白い肌が際立つようにと、紅を引いた唇はふっくらとしていて、艶やかだ。凝った作りの銀細工の首飾りにはルビーが填(は)まっており、襟の詰まったドレスは薄い紅(べに)色で、煩過ぎない程度にフリルがあしらわれていた。
「…………ア……様……?」
 咽が張り付いて上手く声が出なかった。
 どうして、と訊きたくても口は動いてはくれない。
「どうかしら。少しは似合う?」
 ティアの様子には気付かなかったのか、ロナは楽しそうに、その場でくるりと一回転して見せる。スカートの部分に空気が入って、ふわりと広がる。と同時に、甘い香水の香りがティアの鼻孔をくすぐる。
 ――違う。
 ……この人は、――――違う……?
 反応が得られないことを訝しんだのか、上目遣いに、目元を覆う仮面から蒼い瞳が覗いた。
「ティ……ア……?」
 声が……。目が……違う――
 深く息を吸い込んで、目を閉じる。
 そうだ、違う。
 この人じゃ、ない――……
 あの方の瞳は森の碧だった。
 ……海の蒼なんかじゃ……ない。
「お綺麗です」
 まるで予め決められていたように、言葉は事務的に、するりと口から滑り落ちた。
 つい今しがたの動揺が冗談のようだった。
「そう、……ありがとう。ティアも素敵よ」
 口元が、はにかんだように笑う。
「いえ……」
 ロナの頬が薄い桃色に染まったことにティアは気が付かなかった。……否、気付けなかった。
 ティアは言う。
「では姫。参りましょうか」
 舞踏会の始まりだ。
 煌(きら)びやかに飾り付けられた会場と、料理長自慢の料理。各地から取り寄せられた最高級のワインに、贅の限りを尽くしたもてなしの数々。
 選りすぐりの楽曲隊によって優雅に奏でられるのは、最近流行りのアリモーティアという曲である。優雅な曲調の中に強い情熱を秘めている感じが、上流階級に受けているという。
 浮かれたような、どこか落ち着かない、そわそわした気配が空気越し伝わる。
 今日は仮面舞踏会だ。無礼講ということで、様々な男女達が気兼ねなく談笑し、話は弾む。
 その陰に様々な思惑と陰謀が付き纏うのは、参加者達全員の暗黙の了解である。

「ティア……」
 心細さに負けそうになって、つい口に出してしまう。
 それはつい先日、共に城を発った、彼女の護衛の名である。彼は初めて会った時から、彼女を怖がったりはしなかった。他の人と区別したりしない。だから安心するのだ。
「何ですか?」
 このぶっきらぼうな口調が心地よい。
「えっと……」
 今日は、目元を覆うこの仮面が自分の異端さを隠してくれる――何度もそう思い込んだ。
 だけれども、ロナは恐れていた。
 異端の者と呼ばれ、蔑(さげず)まれ、まるで嫌な物を見る目で、自分のことを見られることを。
 古傷がずきりと痛む――
「わ、私の護衛はもういいから、他の人達と踊ったら?」
 自然に聞こえるように気をつけたが、声は微かに震えた。気付かれていないといいんだけど。
 口元だけでも、と微笑んでみせたが、無駄だったのかもしれない。
 俺は貴女(あなた)の護衛です――てっきりそんな素っ気無いことを言われるのかと思っていた。
「姫、踊りませんか?」
 だがティアは、ロナの目の前で片膝をついてそんなこと言う。片手を差し出す様はどこかの国の王子様のようだ。
「わた……しと……?」
 ええ、とティアは頷いた。
 彼も同じように付けた目元を覆う仮面の下で、ティアがどんな表情(かお)をしていたのかは分からなかったけれど、嬉しいことには変わりがない。
 だから言う。
「もちろん。わたしでよければ、喜んで」

あとがき

2011年04月24日
改訂。
やっと舞踏会。
2007年08月29日
ロナのは燻した仮面。
首飾りは銀細工のルビーの。ドレスは襟が詰まった薄い紅(べに)色の、煩過ぎない程度にフリルがあしらわれている。
ティアはダンスできる。
アリアス軍の正装は、銀の縁取りのついた、少し厚めの長衣をベルトで留め、裾が邪魔にならないように固定する。そして上着と同じ濃紺のズボンを履き、裾をブーツの中に入れる。靴が脱げてしまわぬように麻紐で締め上げ、完成。

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