14章 喪った過去 002

 ティア、ティア、ティア、ティアの馬鹿!
 これは一体いつの記憶だろうか。

「ティアの馬鹿ぁ……」
 泣いても泣いても涙は止まることを知らない。
 泣いたらすぐに慰めてくれる筈の婚約者は、いない。
「馬鹿馬鹿馬鹿」
 念仏のように繰り返す。
「どうして放って行っちゃうの……」
 朝起きたら、もうティアはいなかった。
「あたしも連れていってくれないと駄目って言ったのに……」
 それなのに彼は行ってしまった。
 彼が最後に言ったのは、さようならではなく、すみません。
「ティアなんて嫌い。大っ嫌い!」
 手元にあった枕を壁に投げつける。
 ティアは十五歳になったので、彼の父親同様、本格的に軍に入った。
 セオラス家は、名高い軍人の一族であり、同時に代々彼女――ラムアの家に仕える一族でもある。そんな二人は、両親達の計らいの下で婚約していた。
 彼は戦を経験してより強く、主を、婚約者を守れるようにとそう願って、遠征に志願したのだ。
「今のままで充分なのに」
 彼は剣術に長けていた。彼は若年ながら、経験の浅い兵達なんかよりはよっぽど強い。部隊の一個や二個くらい持ってたっておかしくないのだ。
「馬鹿馬鹿馬鹿! ティアなんて大っ嫌い!」
 届かない相手に向かって罵声を浴びせながら、ラムアは泣き続けた。

 それから何日後のことだろう。
 ティアが出立してからというものは、何かに取り憑かれたかのように泣いては一日が終わるのを繰り返していた。
 涙は枯れることもないし、ティアがいなくなってからは部屋の外には一歩も出ていない。
 腹が減ればクローゼットの中に隠しておいた保存食を食べるし、暫く外に出なくても困りはしない。
 泣いてばかりいたってティアが戻ってくる訳ではないことくらい分かりきっていたのだけれど。
「ティア……逢いたい」
 ラムアが最後に彼に言ったのは、ティアなんて大っ嫌い、という台詞。
 ぼとぼとと涙が落ちて、ドレスを濡らす。
「ティア……」
 その声を聴いてくれる人はいない。

「ラムアっラムア!」
 泣き疲れて、ベットの上でうとうとしていたラムアの耳に聴こえたのは、激しく扉を叩く音と母の声。
「!?」
 彼女の城で仕えている者が呼びに来たことはあったが、母が自らこの部屋まで来たことは殆ど無い。
 だが、ラムアが部屋に立て篭ることは以前から何度かあったのだ。だからいつものように軽くあしらうことにする。
「ティアが帰ってく」
 扉の近くで言った言葉は、悲鳴に遮られる。
「嫌……イヤァ……」
「お母様!?」
 息の詰まるような緊張感が扉越しに伝わってくる。
 ラムアは大急ぎで扉の前に積んだ荷物をどけて、鍵を開けた。

 そこは紅い世界だった。いつもラムアの部屋の前にいる息絶えた兵士達といつも小言が煩いメイドと。
「……っ」
 その血溜まりの中に、男が一人立っていた。
 その無惨な光景に、腰が抜ける。母が何事かを叫ぶ姿が見えたが、不思議と声はラムアの耳には届かない。
「おや? 思わぬ所にいたね」
 口元には皮肉な笑みが刻まれている。
 全身を紅い、血に染め、彼は己の剣の刃先を舐めた。
 血に飢えた野生の獣みたいな男だった。
 灰と白、それから紅の斑の髪に、血のような紅眼が印象的だった。
「君もいたぶってあげるよ」
 男の唇がそう綴る。そしてラムアの元へと一歩踏み出す。
「止め……て」
 母が、男の足に縋りつく。
「あの子だけは……ラムアだけは」
 血の海に全身を浸け、母は懇願する。
「いいねぇ。その顔」
 くすりと笑って、彼は母に剣先を向ける。
「自分はどうなってもいいからって? ゼアノス公爵夫人?」
 嘲るように鼻で笑って、剣を突き立てる。
 わざと急所を外して 、長く苦しめるようにと。
「ゃ……めて」
 頭で考えるのではなく、ラムアは感情だけで叫んでいた。
 足が震えて、力が入らない。
 瞳に映るのは紅い血の海。
「大丈夫だよぉ? 君の番は後だよ。お母さんが終わったら、君の息の根も止めてあげるからね」
 青年はおどけたように言う。
 反射的に憤る。
 事は人の生命(いのち)に関わることなのだ。それも自分の母親の。
「止めてーっ!」
 ラムアはスカートを捲り上げて、青年に掴み掛かる。
 考える前に身体が動いていた。
 今は鋼の刃など怖くなかった。
「威勢がいい餓鬼だね」
 微かに口の端を上げる。

 いつもどこかで思っていた。
 誰かが――ティアが助けてくれるんじゃないかって。

「ラム……アっ!」
 母の悲痛な、最期の声が耳に残る。
 次に見たのは紅い、自分の身体。
 そして、聴こえたのは耳元に感じる息だけの笑い声。
「馬鹿な餓鬼」
「ティアっ……!」
 血の涙が、ぼとぼとと落ちる。
 怖い。
「ティアティアティアっ……!」
 あの時、最後に会った時に、大っ嫌いなんて言ってしまった。
 後悔先に立たず、なんて言うけど、そんなの今更だ。
 このまま、自分は死んでしまうのだろうか。
 そしたらもう逢えない。
 あの日、大っ嫌いに返ってきた言葉はすみません――
 嫌だ、そんなの嫌だ。

 男は、何度も剣を突き立て、いたぶる。
 母は必死だった。娘を守る為、必死になるのを青年は嘲笑った。
 男は、愉しむようにして、剣を奮った。だが、その常に急所を外した攻撃は幸いした。
 死んフリをしてしまえばいいのだ。目を閉じて、息を潜める。そうすれば、身体中から溢れる出血の量を少しでも抑えられるはずだ。
「もう終わりかい?」
 しいんとした空間に、男の声が響く。耳を澄ましても、母の声はもうしない。
 涙は零れなかった。
 もうラムアも、それ以上身体を動かすことが出来なかった。
 痛いという言葉なんかじゃ済まされない程、全身が痛かった。
「はん、つまらない」
 鼻で笑って青年はその場を離れた。
 彼は血に塗(まみ)れた藍の軍服を着ていた。

「……て……ぁ」
 自分以外に、生ける者のいない世界に、掠れるような声が響いた。

あとがき

2011年06月13日
改訂。
2005年12月18日
初筆。

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