3章 仮面舞踏会 004

 繋いだ手が温かい――これはいつの記憶だろうか……。
 広大な屋敷の中、来賓が多く集まるテラスの陰に小さな人影があった。
 それは、長い金色の髪の少女で、茂みに隠れるようにして、広間を覗いていた。
「よく、見えないわ」
 少女が着ているのは一見して高価だと分かる薄桃のドレスで、裾にレースをふんだんにあしらわれている。それは、少女に良く似合っており、幾千もの花々にも劣らぬ可憐な一輪の薔薇のように少女を美しく彩る。
 そんな少女にみとれてしまいそうになっているのは、少女と同じ年頃の少年である。否、少し少年の方が年上だろうか。
「仕方が無いです、こんなことしていたらお父上に怒られますよ」
「何よ、ティアはお父様の味方なの?」
 少女の頬が膨れて、そっぽを向く。
「ち、違います」
 ティアは慌てて否定する。少女の機嫌はすぐ悪くなるのだ。
「ふーん」
 今日は、とてもいい天気で、テラスの窓は開け放たれていた。その窓からゆったりとした音楽が、庭まで聞こえてくる。
「……ティア、わたしと踊りましょう?」
 はにかんだ笑顔が脳裏に焼き付く。
「む、無理ですよ。……俺は、踊りなんてしたことないんですから」
 目の前の少女の手をとって、テラスの向こうにいる紳士淑女のように踊れたらどんなにか良いだろうか。
「平気よ。ほら手を出して」
 光の加減で透き通って見える長い金の髪が、少女の背で跳ねる。
「わたしがエスコートしてあげる」
 戸惑う少年の手を、少女が半ば強引に取ってそっと口づける。
 背中に流した緩やかな金糸がさらりと落ちる。
「姫、お手を」
 少女は冗談めかしてくすりと笑った。

「ティア、曲が……」
 ふいに、ロナの声が聞こえた。
「……?」
 ほんの数秒だが、判断が鈍る。
 彼は先ほど、小声で今二人が置かれている状況を説明したのだ。そして、曲が終わると同時にさりげなく退室する手筈になっていたのだ。
「外に?」
 ロナの声がティアを、記憶の中から引きずり出す。
「……あ、はい……行きましょう」
 金の髪があのときの少女のように緩やかに肩にかかっている。
 誰にも気付かれないようにこの場を離れならなければならない。
 なのについ、そのことを忘れそうになる。
「……ァさま……」
 泣きそうに呟く。
 愛(いとお)しい少女の名を。
 その呟きが聞こえたのか、目元を隠す仮面をつけた少女が振り返る。
 薄暗い廊下の中、黒い仮面は、闇に溶けてしまう。より一層口元の白さが際立つ。
 仮面の下の瞳は何色だろうか――……
 紅を引いた唇は言葉を紡ぐ。
「……顔色が悪いわ。部屋で休みましょう」
 ティアも目元を覆う仮面をつけてはいたが、それでも尚わかる変化だったのだろう。
 ロナは不安そうに傍らの護衛を見上げた。

 それはティアの大好きな色だといい。
 まるで何かに囚われたかのようにそう思った。

 誰しも、忘れたい過去の一つや二つはあるものだ。
 きっと自分は、長い間夢を見ていたのだ。
 あんな悲しくて、辛いことが真実であるはずがない。
 だってあんな結末は――……
 ティアはそこで我に返った。
 まだ闇に慣れていない視線をゆっくりとさ迷わせる。
「……こ……こは」
 視線の先には天井があり、身体は柔らかい布の上横たえられている。
 どこかの部屋なのであろう、そんなことを考えながら、ふいに目尻に触れる。そこは微かに湿っている気がした。
 夢……。
 どこからどこまでが夢で、どこからが現実なのだろう。
 段々と意識がはっきりしてくる。
 そういえば、ティアの頭は何だか柔らかくて温かいところに置かれていた。
「……?」
 目もそろそろ闇に慣れてきた。
 ここは……。
 視界の端に、闇の中でもうっすらと光を放つような金糸が映る。
 途端にティアは勢い良く身体を起こした。
 どくん、と胸が高鳴る。
「ラムア……様っ」
 自然と名前を呼ぶ。
 緩やかな金の髪は肩まであり、闇の中で白い肌がより一層際立つ。
 ただ、愛(いとお)しかった。
 彼女はどこかの物語にあった永遠に眠り続ける姫君のようであった。ティアはそっとその頬に触れる。
 これが現実だと、そう安心させるために。
 
 
 血塗られた刻印。
 その両の手に刻まれた過去の苦しみ。
 逃れられない事実と過ぎ去った理想。
 溢れる気持ちは止まることなく、ただ狂ったように心が壊れてゆく。
 もう……戻ることは出来ないのか――……
 自責と後悔が、押し寄せる……。

 しかし、彼女は触れても消えたりはしなかった。
 微かな寝息を立て、眠っているようだった。
「これは……夢じゃあないんですね」
 今まで知らないうちに溜め込んできた緊張が一気に緩む。安堵の微笑みは、その緊張が溶けた証のようだった。
 ティアは少しの躊躇いの後、彼女を優しく、だけれど強く抱き締めた。
 現実の彼女は柔らかくていい匂いがした。
 こうしているだけで至福の時のように思えた。
 
 
「……ん……」
 少しだけ息苦しさのようなものを感じて、ロナは目を覚ました。
 薄暗い部屋の中にいるのは自分を含めて二人だった。
 視界に入るのは一人の青年の肩で、それが誰なのかはすぐ分かった。
 回された腕はこんなにも優しいのに、哀しさで溢れているのはどうしてだろう。
「……泣いてるの」
 青年の身体がびくりと震えたのが、身体に回された腕越しに伝わる。
「……違う……俺は……違う」
 まるでうわ言か何かのように青年が呟く。
 首筋にかかる息が熱い。

 刻まれたるは紅き血印。
 両の手に抱きしカラダは、脆く、崩れ去る。
 もう何もかもがいらないと思った。
 大切なのはアナタなのだから――
 あなたがいない世界なんて、無くていい。
 
「…………俺は……違う……夢なんかじゃ…………」
 頭を振って否定する。
 嫌なことしか浮かんでこない。
 こんな結末が本当に真実ならば、世界は、なんて残酷なのだろう。
「ねぇティア」
 そっと青年の頭を撫でる。
「笑って……」
 きっと貴方には笑顔が似合うもの。
 彼が、こんな風に哀しみを背負っている理由が何なのかは知らないし、想像も出来なかった。
 だけど、放っておけるわけがないわ。
 そう思ってロナはティアの肩に顔を埋めた。
 そして、彼の背中をゆっくりと擦(さす)る。
「まだ寝ていた方がいいみたい。きっと疲れが溜まっているから、気が動転してるのね」
 ロナは微笑む。
「いい子だから目を閉じて」
 いつか母親に言われた言葉を思い出した。
 泣いている子供に言うように、ロナはティアにそう告げた。
 闇の中で赤と青の宝石が薄く光を放った気がした。

あとがき

2011年04月26日
改訂。
短編と矛盾が出来ていた。本編を軌道修正。
2005年07月12日
初筆。

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