32章 秘めた想い 002
それは、夢の中のようなぼんやりとした世界だった。
上下も分からないような世界の中で、ただ一人存在していた。
最初は不安な気持ちが大きかったが、目の前に広がる景色はとても不思議な光景であった。
角度によって色が変わって見える靄(もや)の中に空中には色とりどりの糸みたいな物と、シャボン玉のような物がふわふわと漂っており、それらが動く度に様相がガラリと変わり、とても綺麗だ。
そして何をするでもなく、ぼんやりとその光景を眺めていると、不思議と落ち着いた。
しかし、その時間も長くは続かなかった。
否、この特異な空間の中で、時間の感覚までおかしくなっていたのかもしれない。
唐突に強烈な腹の痛みに襲われ、驚いて見ると、自分の腹から血が溢れ出ており、思わず息を呑む。
「……っ」
怪我なんてした覚えが無いのにどうしてしまったのだろう。
けれど、恐る恐る腹部に触れた手に、血は付かなかった。
「どうして……」
しかし、どくどくと、血は止めどなく溢れ、痛みは次第に増していく。
着ていたドレスは真っ赤に染まり、段々と意識が朦朧としてくる。
一体何があったのだったか?
それでも必死に、思い出そうとしてズキリと頭が痛んだ。
それからどれほどの時間(とき)が経ったのだろうか。
「大丈夫?」
突然声を掛けられ、驚いて顔を上げると、全身に大きな紫色の布を纏った人がいた。
「……あなたは?」
微笑んだ気配がして、言葉が降ってくる。
「君に会いに来た」
それは、頭に直接響いてくるような声で、軽快な響きをしていた。
口調から何となく男性のように感じはしたが、中性的な声音でであった。その目深に被ったフードから覗くのは、口元だけで、その人物の性別はおろか、年齢すらも正確には認識出来ない。
「秘密」
笑った気配がして、その人はそう言った。
そして、何の躊躇いもなく、血塗(まみ)れのドレスに触れた。
「もう大丈夫だよ」
「え?」
男の台詞を疑った瞬間、その痛みは和らぎ、恐る恐る、腹に視線を遣った。
「え!?」
驚いたことに溢れ出る血液は止まり、ただ紅い染みのみを残していた。
「どうして……?」
「秘密」
その人はそう言って、人差し指を口の前に立てた。
「あなたは……ここは、どこなんですか?」
ただ混乱していた。自分の置かれた状況が全く理解できない。
それでも、目の前にいる人物は充分に怪しかったが、いないよりは幾分もマシに思えた。
「どうして傷口が……」
「秘密、と言いたいところだけど、それじゃあ君は混乱するだろうから、一つだけ」
物言いたげにその人を見つめたが、その人は微笑んでから、内緒話をするように、耳元に唇を近付ける。
「ここは、真実ではない世界」
「え?」
「この世界は偽りの世界だよ、片割れの姫君」
「それって、どういう……」
「それ以上は言えないし、言っても理解出来ないだろう」
小首を傾げてそう言った。
「……どうして?」
「まだ、その時ではないから」
その言葉の意味を考える。
「貴方は……」
「おっと、そろそろ時間だ。すまないが、あまり時間は無いんだ」
「時間……?」
「事情があって、長い間この場所にはいられない。だが、君に言わねばならないことがあるんだ」
そう言ってその人は、あたしの唇に人差し指で触れる。
その瞬間、唇が動かなくなり、言葉が紡げなくなる。
「暫く不自由を我慢して頂こう」
理不尽に言葉を封じられ、非難の目を向ける。
だが、構うこと無く、その人は言葉を続けた。
「これは、君にしか頼めないことだが、それを実行するかはどうかは、君に任せる。しかし、この願いを聞き入れてくれると嬉しい」
その言葉の奥に潜んだ響きは、何だろう。上手く、言葉に出来ない。
「まず、これを君に託そう」
その人は懐から何かを取り出し、わたしの手に握らせる。
「もし、使わないのであれば、捨ててくれてもいい。売れば金にもなるだろう」
手を開いてみると、それは紫の石の嵌まったブローチで、とても高価なもののように見える。
それが何かを問い質すように視線を向けた。
「ある女性を救って欲しい」
そのブローチは、彼女に所縁(ゆかり)のあるものだ。それは、君の手助けをするかもしれないが、場合によっては、何の力を持たないかもしれない。
「でも、どうか……君に持っていて欲しい」
フードの下の表情は全く見えず、この時、その人がどんな表情(かお)をしていたのかは分からない。
「そして、可能であれば彼女を……」
声は次第に小さくなり、そして、途切れる。
「どう……か……のじ……を」
待って、と叫びたかった。だが、声は相変わらず封じられており、何も言えはしない。
その時一筋の風が、彼のフードを巻き上げる。目元が露になり、彼は驚く。
彼は、泣きそうな顔で微笑んでいた。
どうしてだろう、ポロポロと涙が頬を伝い、彼はわたしの額に口づける。
「どうか……神の加護があらんことを」
その瞬間、言葉は解かれ、言葉が溢れる。
「もう一度、貴方ともう一度会える……?」
彼は何も言わずに首を横に振った。
「君の……からを……べて……まった」
そうして、彼の姿は次第に薄くなり、声もあまり聞こえなくなる。
「名前を」
彼は笑って、こう言った。
「ゼア」
その声だけは不思議と耳に残り、そして彼の姿は消える。
感傷に浸る間もなく、そこで、意識はプツリと途切れ、何も見えなくなった。
ただ、手の中のブローチを無くさないように、しっかりと握り締めていた――
あとがき
- 2012年4月25日
- 初筆。
久しぶりの更新です。
矛盾が発生しそうで怖い……。