入団
ボクには幼い頃の記憶がない。
一番最初の、覚えていることといえば、ボクはベッドの上で、全身に大小様々な擦り傷やアザを作って寝ていたことだ。
寝返りを打とうとして、痛みに小さな身体が悲鳴を上げて飛び起きた。
「……っ」
ようやく閉じてきた左肘の切り傷が、布団に擦れて血が滲んでいた。
思わず涙が出そうになる。
だが、ふいに人の気配を感じ、そちらを振り返る。
「やぁっと起きたのね?」
そこには、茶色い髪の女の子が立っていた。
その女の子の手には、何に使うのだろうか? 茶色くて丸い箱、のような物と、白い布が握られていた。
「……誰?」
思わず涙を引っ込めて問うた。
少し考えたが、彼女は初めて見る人であった。……といっても、ボクの記憶はこの時から始まったのだから、いくら思い出そうとしても覚えているはずがなかったのだけれど。
「ん?」
少女はボクがいるベッドの横にあった台に、先程の箱のようなものを置く。そして持っていた布を一枚その中に入れる。
「どうしたの? 頭でも打った?」
箱には水が入っていたようで、白い布はたっぷりと水分を吸っていく。
「え、ええっと……」
質問の答えを探そうとして答えに詰まる。
よく、覚えていない。
何だか頭も上手く働かない。
「身体が痛いの以外で、どこかおかしいところはある?」
少女の茶色い瞳が覗き込むように、顔を近づける。
「や、痛くは、ない」
悲鳴をあげているのは身体……主に首から下で、頭を触ってもタンコブがあるような感触もない。ただ腕を上げる際には激痛が伴ったが。
「……っ」
どうしてこんなに身体が痛いんだったっけ。
転んだのか、ぶつけたのか、それとも……。
「身体拭いてあげるから、服脱いで。手当してからまた寝るのよ」
少女は白い布を水から引き上げて、固く絞る。
「……誰、なの?」
もう一度問う。
少女が自分のことを心配してくれているのは分かったけれど、不安は拭えない。
「……ホントに分からないの?」
ちょっとだけ寂しそうな声に、ぎりっと胸が痛んだ。
「……ごめん、なさい」
彼女が誰で、ここはどこで、どうしてこんな体中が痛いのかも分からない。
それに、ボクはボクが誰なのかも、よく分からなかった。
「団長呼んで来るわね。そこで大人しくしておいてね」
少女は努めて明るくそう言って、部屋を出ていった。
そこからの記憶も曖昧だった。
少女が連れて来たのは、大柄な体格の良い男性で、彼と話した後は、ぞろぞろと老若男女が室内に入ってきて自分の周りを囲んだ。そのみんなは一様に心配そうな顔をして、ボクに話かけてくれたけど、ボクはその誰もを全て知らなかった。
「まぁあんま気にすんなよ」
「そうそう、記憶喪失なんて良くあることさ。トムソンなんか何度言ったってボケてるし」
「ボケってなんだよ!俺は!」
「はいはい、喧嘩しないの。みんな仲良しがウチの取り柄なんだから」
「ルゥ痛いの治った?ワタシ、とっておきのおまじない教えてあげるよー」
「そんなおまじない効かねーよ」
「むー!そんなことないもん!絶対効くんだから!」
「それより今日の晩飯当番ってアリアじゃね?そろそろ市場に行かないと閉まるぞ?」
ボクは一切彼らのことは覚えていなかったけど、……騒がしい集団だということはわかった。勿論良い意味でだが。
幼い頃の記憶は本当に断片的で、次にはっきりと覚えているのが多分それから半年くらい経った頃だと思う。
ボクは、歌劇団の団長に拾われて、ここにいるらしい。
ボクの記憶の中で最初に会った女の子はラアナといった。いつも明るい彼女とは多分年齢も近く、すぐに仲良くなった。
そんなある日、仲間達との練習が終わり、珍しく、みんなそれぞれの用事に出払ってしまった。ラアナと二人取り残されたボクは、手持ち無沙汰に近くにあったボールを拾う。先程片付け忘れていたのだろう、そのカラフルなボールをカゴに投げ入れる。
「そういやさ、前に、ルゥが記憶をなくした日のことを覚えてる?」
「え?」
唐突な問いかけに驚いて振り返る。
「ルゥがわたしのこと忘れちゃった日よ」
くすりと笑ってラアナは言った。
ボクはちょっとだけムッとして、投げやりに言う。
「怪我したときのこと?」
ボクだって多分怪我したくてしたわけじゃないし、記憶の方も忘れたくて忘れたわけじゃないと……思う。
「怒らないで聞いてよ?」
おどけたようにラアナは微笑んだ。
ボクは黙って頷く。
「あのちょっと前の日にルゥはうちに来たのよ?確か嵐みたいな強い雨の日で……」
ボクはその時のことを思い出そうとしたが、靄(もや)がかかってしまったように、何も覚えてはいなかった。
「夜中だったから、いつもなら寝ていたんだけど、雷が怖くて起きちゃったの」
ラアナは、えへへと笑う。
蘇る閃光。
きつく抱かれ、服越しにその人の体温を感じる。
唐突に目眩がして、思わずうずくまる。
「……大丈夫?」
ラアナが側に来て、ボクの顔を覗き込む。
目眩はすぐに収まり、深く息を吸い込む。
「へい……き」
ボクは頷き、足を崩してその場に座った。
「今日はちょっと……歌い過ぎちゃったみたい」
笑ってごまかす。特に体調も悪くないはずなのだが。
何だったのだろう……今の。
「ボクは平気だから、続けて」
「あんま無理しちゃダメだからね!」
ラアナはそう言って、ボクの隣に座った。
前日の夕方くらいから雲行きが怪しくなり、その夜半から滝のような雨が降った。その雨は勢いを緩めることなく、次の日も降り続け、時には雷をも伴い、空は荒れ狂った。
こんな悪天候では、例え屋根のある広い場所で公演したって、客は数える程しか来ないので、止む終えなく休演とした。一座の商売は上がったりで、団員達は特にすることも無く、町の宿に缶詰状態であった。
この地域では、普段はまとまった雨が降ることがなかったので、その宿で働くお喋りな女達は芋を剥きながら、何か悪いことが起きる前触れなんじゃないかなどと退屈凌ぎに、そんな噂話を楽しんだ。
団員達は、日中、室内で軽く練習をしたり、あるいは本を読んだり、日頃の疲れを取る為に昼寝をしたりした。そして、日が暮れれば、皆早々に晩飯を平らげ、床に着いた。
しかし昼寝をしてしまったせいか、ラアナは寝付けず、布団の中で半分寝たか寝てないかのような状態で、寝返りを打つ。
そんな時、閉じたカーテンの隙間から、閃光が瞬き、次の瞬間、轟音が鳴り、思わず飛び起きた。
「……うぅ、かみなり……」
室内は暗かったが、夜目は効く方だったので、寝呆け眼に周りを見渡してみる。一座の女達が雑魚寝状態だったが、皆規則正しい寝息で、特に誰も起きた様子はなかった。
外の雨はまだ強く、近くに落ちるといったことは無かったが、空は何度か瞬き、その度に轟音を響かせていた。ラアナは、身震いをして、そっと寝室を抜け出す。雨も雷も止みそうになかった。暫くは眠れなさそうだから、少し顔を洗って来よう。そう思って廊下に出る。
女達の眠る部屋の隣が、男部屋で、その隣の小部屋が団長の部屋だ。洗い場はそれとは反対の方向にあった。僅かだったが、廊下には、蝋燭が点(とも)されており、仄かに明るい。明かりがあったので、足取りを緩めることなく、そちらに向かう。
また、空が光って、雷が落ちて、びくりと身体を震わせる。
この宿は、玄関から一番遠い場所に勝手口があり、その側にキッチン、風呂、トイレなどの水場がある。勝手口まではさほど距離は無い。気を紛らす為に、出てきたはずだったが、こう頻繁に驚かされては気も紛れない。直ぐに用事を済ませて、部屋に戻ろうと思う。雷は苦手だ。
ようやく端まで辿り着いたところで、唐突に勝手口が開け放たれる。嵐のような雨が室内に入り込んで来る。
「な……に」
一瞬思考が停止し、空に閃光が走る。一瞬遅れて、今までで一番大きな音で雷が落ちる。
怖くて思わず耳を押さえてしゃがみ込んでしまった。
多分、一瞬の出来事だったのだろうけど、とても長い時間に感じた。
「すまない」
聞いたことのない男の声が頭の上から降ってくる。思わず顔を上げる。
強い雨が開け放たれた扉から室内に入り込む。
目の前に、全身をずぶ濡れにした黒い人が立っていた。
「……だ……れ……?」
思わず声が漏れた。
「危害は加えないから、そこを通してはくれないか?」
そう言われて気付く。自分はそんなに広くない廊下のど真ん中で座り込んでいた。
「あ、ごめんなさい」
条件反射のように端に寄る。
「驚かせたようですまない。ついでで申し訳ないのだが、両手が塞がっているので、扉を閉めておいてくれると助かるんだが、お願い出来るか?」
そう言われて男を見る。顔は布で隠しているようで良く分からなかったが、僅かに照らされた目元は透き通った金色の髪をしていた。そして、両手には何か大きな荷物のようなものを抱えていた。
ラアナは頷いて、扉を閉める。雨の音が少し小さくなる。
「すまない、恩に着る」
男は一礼して、背を向けた。
ラアナは何も言わず見送っていたが、ふと気付く。
あれ……団長のお客さんかな……?
廊下は真っ直ぐなので、かなり先まで見える。かなり暗闇にも慣れていたのもあって、男が自分達の部屋辺りで見えなくなった気がする。
取り敢えず顔を洗おうと思って、角を曲がって水場へ行く。
さっきのは誰なんだろう……。こんな大雨だし、すごい雷だし、夜中だし。危害は加えないって行ってたけど、本当だったのだろうか。実は悪い人で、自分は危険人物を入れてしまったのではないか。そんなことをぐるぐる考えながら、顔を洗ってから、来た道を引き返す。
考え事をしていたので、雷も気にならなかった。
「あ」
やっぱりさっきの男は団長のお客さんだったのだ。団長の部屋からは明かりが漏れており、僅かに物音も聞こえる。そして、好奇心に負けて、部屋の前まで来てしまった。
引き帰そうかと思ったが、すっかり目も覚めてしまったし、さっきの男の素性が気になって眠れそうにない。
ちょっとだけ、と思って扉の前で少し考えたが、部屋の中で何か会話をしていることしか分からない。いけないことだと思いつつ、そっと扉に耳を近付ける。
「……ら……が……いまは……」
「それは……つまでだ?」
「わか……い」
「……分か……た」
団長の声の方が低く、若干聞き取り易かった。
「出来れば……」
「分かっている」
「では……うに」
物音がして、焦る。
よく聞こえなかったので、少しでも聞こえるようにと、いつの間にか全体重を扉に預けていた。
まずいと思って、扉から離れようとしたが、間に合わない。
扉が勢い良く開けられて、バランスを失った身体は、重力に従い地面に吸い寄せられる。
なんでこういう時って時間がゆっくりに感じるのだろう。絶対顔面床に打つし、鼻とか打って鼻血が出たら格好悪い。
まぁ盗み聞きしていた時点でかなり格好悪いのだが、そんなことは頭に無い。むしろ団長に盗み聞きが見つかって怒られ、きっとあるであろうお仕置きのことを考えただけで憂鬱だ。
しかし、第一の衝撃がいつまで経っても来ない。
むしろ何だかいい匂いがしたし、ほんのり暖かい。
「大丈夫でご……であるか?」
すぐ近くで声が聞こえた。
「うえ、あ、はい」
勢いよく頭を上げる。
「……っ」
ゴツンと何かに当たる。い、痛い。
「うわわ、す、すみません!」
見ると自分は先程の男の腕の中で、男は顎を擦っていた。
「否、平気でご……である」
「でも」
そうか、自分が顔面強打しなかったのはこの人が助けてくれたからで、今、自分はその恩人の顎に思いっきり頭を打ち付けたらしい。
「怪我はないで、ないか?」
ぶるぶると首を横に降る。男は自分を抱き上げて立たせてくれた。
「ごめんなさい! ありがとう!」
誰だか分からないが、きっとこの人はいい人に違いない。
それに、顔を覆う黒い布の合間から見える青い瞳は透き通っていて何だか宝石みたいだ。僅かに見える金髪も艶々で、物語の中の王子様はきっとこんな風なのだろうと思う。その端正な顔立ちに見惚れてしまいそうになったが、腹に響く低い声が後ろから聞こえて、思わず身が竦(すく)んだ。
「ラアナ?」
あぁ、恐れていた自体に陥ってしまった。
団長の大切なお客様なのに、会話を盗み聞きした挙げ句、最悪の形で見つかって、こうして迷惑をかけている。
どんなお仕置きがあるのか考えただけで恐ろしい。
「すみませんっ団長っ」
大慌てで頭を下げる。
普段は温和な人だったが、体格の良い団長が怒ると、まるで鬼のようで、団員達からは、本気で怖れられている。
「あまり褒められる態度ではないな」
どんなお仕置きが待っているのだろう。皿洗いとか洗濯を一人でやるとかいう雑用ならまだいいけど、痛いのだったらどうしよう。
「……が、丁度誰かを呼ぼうとしていたところだ」
しかし、予想とは違った声が返ってきて、ラアナは拍子抜けする。
「え?」
思わず頭を上げて確認する。団長の表情は穏やかだ。
「熱い湯と清潔な布と」
ちらりと視線を遣り、団長は苦笑した。
「子供用の着替えを用意して欲しい」
その視線の先にはベッドがあって、布団の上には布の塊があった。
「?」
「名前はルゥ」
ラアナは、よく分からないまま、その塊に近付く。後ろに、二人の視線を感じた。
そこには、布に埋もれて、綺麗な金色の髪の子供が横たわっていた。
「今日から我々の仲間だ」
ラアナは驚いて振り返る。
「注意はしていたのだが、雨に濡れてしまってな。風邪を引いてはいけないので、清潔な衣類と、暖かい布団があるといいのだが」
男は苦笑して言った。
その子供は小さくて、下手に扱うと壊れてしまいそうな気がした。
「分かりました。すぐ準備します!」
ラアナは、大慌てで、部屋を飛び出した。
男は団長と数言話してから、部屋を出る。
外は相変わらずの大雨で、まだ時々稲妻が光っている。
勝手口の近くに繋いだ馬は、大人しくしているだろうか。
そんなことを考えて、廊下を行く。先程の少女が両手に布を抱えて戻ってきたようだ。
「もう、行くんですか?」
ラアナは少し前で立ち止まって問うた。
「ああ」
歳も近いであろうこの少女が、あの子と仲良くしてくれればいいなと思う。
ラアナは大人しく、廊下の端に寄り、道を譲る。
男はその横を通り抜け、言う。
「では、またいずれ」
「はい」
次に会うことなんてあるのだろうか?
だが、そんなことを考えている内に、男は振り返りもせず行ってしまった。
次の日になって、ぴたりと雨は止み、何事もなかったかのように、人々には日常生活が戻った。
その子供は、殆ど眠ったままで、暫くは風邪をこじらせたのか、熱が出たりもしていたのだが、ラアナがつきっきりで看病をしたので、体調もみるみるうちに良くなっていった。
「ルゥってばホント、鈍臭くて、その癖、出来るわけ無いのに全部の演目に挑戦してみて、全身傷だらけになるんだもん。最初はみんな呆れてたわよ」
話していて、ラアナは、とても懐かしい気分になった。あの時の男は一体誰なのだろう。憶測ではあるが、声は思いがけず若かったので、ルゥの父親では無い気がする。ルゥは、小さいからか、あまり昔のことを覚えていないようだし……。
「そもそも剣舞とか無理でしょ。ルゥわたしより子供だし、足短いんだし……ね?」
ラアナは、けらけらと笑って、ボクをからかう。
「な……! そんなことやってみないと分からないじゃん!」
ルゥはムキになって言い返す。
ボクは、昔のことをあんまり覚えてないのだが、別にそれを不安に感じたこともない。
「まぁみんな容赦なくルゥの相手をしてたからね、命があるだけマシよねー。アリザなんて、力むって言うより殺気を感じちゃったもんね」
ふいに思い出す。
いつも優しいみんなのお姉さん的存在のアリザが、ズタボロになった自分に、容赦なく襲い掛かってきたことを。
「確かに、あの時はちょっと怖かったかも……」
「まぁ、アリザ本人は、これ以上、無謀なルゥに怪我させないように必死だったらしいけどー」
チョロチョロと好き勝手に動き回られて、大変だったらしい。
「まぁ、でも、ちょっとは無謀だったかなぁとは思ってるよ。特に、火の輪準備してる時に引火したこととかさ」
あの時は、団員総出で、火事を消したのだ。
その必死な光景を思い出し、二人でけらけらと声を立てて笑った。
昔の記憶が無くても、ボクはあまり寂しいと感じたことはなかった。
それは、きっとここの人達がいつも優しくて、温かかったからだと思う。
「……ありがとう」
何にもなかったボクを受け入れてくれて。
「なぁに、当然じゃない」
ラアナは立ち上がって、腰に手を不敵に笑う。
「だって、わたし達は、家族なんだもん」
ボクは、はにかんだように微笑んだ。
あとがき
- 2011/04/02
- ラアナの名前が全く思い出せなくて、一生懸命調べました。
ちょっと本編と食い違いがあるんだけど、本編直すときにそっちを直す……かな。